昭和52年10月11日 朝の御理解



 御理解 第24節
 「人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼刃の信心じゃ。つけ焼刃の信心は取れやすいぞ。どうぞ、その身から打ちこんでの真の信心をせよ。世に勢信心ということを言うが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ。」

 家内中勢を揃えて信心をしておるというても、その信心の眼目と言うか、目当てが小さかったんでは大したことはない。家庭勢を揃えて大きな眼目の元に信心が出来たら、力が受けられる。ですから現在の合楽の場合なんかは、家族勢を揃えてという信心を卒業して、教会勢を揃えて信心せよと言う様な風に頂けると思うのです。他所から見えた方達が、まぁ感心されるのは合楽の方達は、もう中心になる人達ほどが、皆家族が勢を揃えて、家族ぐるみの、いわば信心が出来ておられると言う事に感心されます。
 言われてみると、成程合楽では皆家族が勢を揃えて信心しております。ですからそういう信心が、まぁ成程折角家族勢を揃えて信心しておるけれども、どうぞ一家中のまぁおかげと言うか、一家のまぁ繁栄繁盛と言うかね。そういう願いの信心から、家族を挙げてまぁ言うなら、教会を中心の信心になった時、まぁ本当な信心になって行きよると言う事になるのじゃないでしょうか。
 ですから教会あげて、いわば勢をそろえて信心せよと言う所に、私は信心のいわば成長と言うなら、そういう成長を自分たちの信心、自分一家の信心に何時も置いていかなければいけないと思う。熱心ではある一家中ではある、けれどもそれはどこまでも、どうぞ自分の家の事ばっかりのための一生懸命。なるほどそれでおかげを受けることは受けますよね。ですからやはりおかげの世界から徳の世界光の世界。これはもう信心の一つの進めていく、まぁ段階を追うてと言う事ですから。
 大阪の阿倍野教会なんかは、信者の多い事では、まぁ恐らく日本一じゃろうと思います。続きの前が二千名と言うのですから、どこまで真実かそら分からんのですけれども、そう言われております大したことです。朝のいわゆる朝の御祈念に、やっぱ千名ぐらいあるんじゃないでしょうか。一日のお参りがやっぱ二千名からあるというお話です。どうしてあんなにそのまぁ多いかと言うと、一家一店がもうぐるみになって信心するからだと言われておりますですね。
 まぁ例えば大阪と言えば商都と言われる。商売人の町ですから商社なんかの、言うならば店長なら店長店主、または社長が信心を致します。まぁ会社としての色んな難儀があります。そすとねその社長がね社員に頼むそうです。実はこんな難儀な問題にその直面してるんだと。まぁ言うならまぁその何時何時までの手形が、どうも間に合わんごたるから君達も手伝うてくれと。勿論信心のですよ。それでまぁ社長に言われるものですから、まぁしょうこととなしじゃある。
 それこそしょうことなしじゃあるけれども、着いてまぁお参りをする訳なんです。それで社員が二十人おると二十人のみんな、参らないと社長に対してすまんち言う。もう女中さんも参ってくる店員さんも参ってくる。一家一店まぁ一会社を挙げてお参りが出来る。そしてやはりそのおかげを頂く訳です。それではぁ金光さんちゃたいした神様だなぁという風に思うもんですから、その人達が今度は自分の家に持って帰る訳なんです。そすとまた、その家一家中が挙げて信心すると言った様な事だと聞いております。
 ですから一家中が挙げて参ってくるもんですから、十軒例えば信心しよるなら。それが、一家族が五人あるとすると、五十人のお参りがあるわけなんです。やっぱりね信心がなからにゃ嫁御にでちゃ、もう頭下げんじゃなくてやっぱ頼まにゃいかんです。そして夫婦が勢を揃えるとか、親子一緒に勢を揃えてです。一つの問題が言うならば大きな石でも、勢を揃えて持ち上げれば、持ち上がる道理だと言う事を分からせる事です。そして神様の働きを分からせる。
 そこから銘々がおかげを受けねばならない事実に突入していくわけです。ですからそれがまたこう増えていくという訳なんでしょう。まぁ合楽では黙って治める、黙って治めるというからもう信心でも黙って。だから幾ら言うて聞かせたっちゃ出来んじゃなくて、言うて聞かせるのじゃいかん。やはり頼まにゃいかんです。それが先ず自分の手元足元の所からの、私は素晴らしい示現活動になるという風に思います。
 とりわけさぁ記念祭。もうやはりちゃんと準備が出来とりゃ、それこそせめて自分の一手自分の店、全部の者がその日はもうお休みにして、勿論給料は社長が払わにゃ出来ん。まぁいうなら臨時休業でもさせて貰うて、そして皆に参ってくれと。そしてまぁ店なら店の会社なら会社の事を願ってくれ、祈ってくれと社長が言うから、しょう事なしにお参りがそれがまた本当の信心への、難儀を持たない者はありませんから。その自分の難儀もこれはお願いをしようと言う様な事にも、なって来るんだとこう思うのです。
 そういういわば勢を揃えた信心という事が、まぁここでは色々説かれます。実際は力を持たない者がですね、言うなら百、千、集まったところで大したことはないです、本当はね。力のない者はかえって、邪魔になるぐらいなような場合もありますくらいでしょうけれどもです。問題はその人達がおかげを頂かなければならぬからと言う事になるのです。力のない人達が力をこれから受けていって、貰わんならんからと言う働きに進展していくわけです、信心が。
 高橋さんの所が、あぁし、段々店を拡張して参りました。段々いわゆる、社長の信心に着いて来る人達があります。始めの間はほんならそれが、やっぱりお付き合い的なものがです。この頃では打ち込んで自分達の一身一家のことも、祈り願われる。夕べの月次祭にあすけ新しいお社が。いしきんの、お月次祭に御祈念させて貰ったのは、高橋さんところの、宮崎支店の支店長の所のお宮さんです。もう社長にお付き合いが自分自身が、拝まなければおられなくなってきた。
 だからそれが言うならば全店に、そういう風に広がって行くと言う様な、私はおかげになる。成程始めから力のある者はありませんから。百集まった所で大した事はないだろうけれどもです。その力のない者が銘々が、力を受けなければならんと、自覚するように段々なって来る訳です。そう言う所に、私は、示現のいうならば、神仏の不思議な働きを受ける事が出来るように、段々なってくると思うです。支店長がこの人達が、宮崎を含めて三名は、熱心に信心を致します。
 段々もう自分自身のこととしての信心が出来るようになって行きよります。だから三福に百名の従業員があります。その百名の従業員が挙げて、ほんならいわば今日は記念祭だからと、従業員には勿論給料を払うて、今日は三福全店が休業するというぐらいになってくると、ほんなら高橋さん一人一軒で、百人の信者が参って来る事になるんです。私が何時も、あの正義さんに昔言いよりました。
 本当に久富建設のはっぴを着た人達がね、五十人おるなら五十人の者が、勢を揃えてぱぁっとこの御大祭の様な時には、お参りが出来るごとあるおかげを頂いたら良いねという風に申します。言うたっちゃ聞かんから、ま黙って祈っていっておると言う事が、そう言う事に仰視されてはいけないと思う。それはいうならばその人達も、いうなら難儀な氏子なのですから。その人達が取り次ぎ助けられなければなりませんから。
 それは百人集まったところで、力のない者が集まったって、それは、仕方がないかも知れんけれども、その人達自身が助かって、その人達自身が力を受けなければと、自覚が出来るようになると言う事が、私は示現の働きによることだとこう思うのです。成程そういう信心が育って行く所に、阿倍野辺りの信心のいわば御比礼があるんだろうという風にまぁ思います。
 愈々御大祭もあと四五日、毎日まぁ日曜ともなると、それこそてんやわんや御用を頂いて、皆さんがおかげをそれこそ一日なりと、御用頂かにゃと言うような風で、皆さんが御用を頂かれます。言うならば教会を挙げて、勢を揃えておるそれは姿だと思います。はぁこういう人達が集まってくるから、いうなら有難い記念祭が出来るんだなというふうにも思います。打って一丸になっての御用が、まぁよう御用がこれほどあるもんだと思うくらいにあるのです。
 昨日光昭が月次祭のときの前講の時に、話しておりましたが。マルショウ何十名の者が日頃疎かになっておる、また日頃出来ない所。もう本当にここにやぐらを組んだように、お広前一杯に、そしてこの天井を拭いておるのは、みなマルショウばっかりですからね。ほらもう本当に、ここのマルショウは素晴らしいです。もう青年会よりももっと素晴らしい働きをする事があります。大祭なんかの時にはもうその方はもうマルショウだけで良い。普通で言うなら青年会をようけ持っところですが、マルショウが幹部達でぴしゃっとやってのけて、もうそれは整然としたもんです。後片付けから何から。
 もう昨日はここの沢山の電気がありますが、その電気がもう全部あの磨かれたり、取り替えられたり致しました。だからこれがほんなら、信者一同がそう言う事になったら。ほら一家で一生懸命参りよる。毎日参りよる。けれども一日の御用すら出来んごたる事で、私は教会挙げて、勢を揃えた信心しておるとは言えないと思うです。言うなら自分の一家の事なら、一家中が勢を揃えとるけれども。それ自分一家が、おかげを受けんならんからですから、もうおかげの世界に留まってしまうです。恥ずかしいですよね。
 合楽でこれ程信心信心.おかげも頂かんならんけれども、信心も頂かなきゃならんと。それでそれこそ十年に一回という記念祭が、さぁ日曜たんべんにとか。まぁ日々でも御用が沢山あります。そういう御用と言う様な事には見向きもしない。御用即信心とすら言う人があります。ですから御用そのものが、そうさせて貰わなければおられない御用であるならば、即確かに信心だと思います。そういう人達が沢山。先総代幹部のなかに出来てこなければいけません。
 そすと他の信者もそれに神習う。いわば始めの間は誘われての御用の人もありましょう。私はもう一人ひとりにそういうその、私は昨日ちょっとそこへ出ましたら、誰でしたかね、あれは熊本の松村さん所の主人で、中々こうあぁしてお参りはして来よるけれども、人がこうもの言うとがあんまり嫌いち言うごたる風で、けども昨日はいわば御用に来ておるけれども、何して良いやら分からんで、うろうろしておるという感じでした。
 そしたら丁度秋永先生が、そこへ出て来ておりましてから、松村さんと言うてその、御用を色々頼みよるわけです。私はそういう様なものが、なからなければいけないと思うですね。ただまぁ付け焼刃的な、言うなら御用かも知れません。けどもその付け焼刃的な御用から、本当な御用が段々出来る事になってくる、おかげを頂かなきゃならん。まぁあと四五日になりました。それをほんなら一日だん行かじゃこてと言うごたる、付け焼刃的なものからではなくてです。
 そうさせて貰わなければおれない人達が集まった時に、いわゆる教会勢を揃えた信心と言う事になるのじゃないでしょうか。その中には一日だん行かじゃこてと言うて、お付き合いで言うなら、付け焼刃的な御用の人もあるかもしれません。けどもそこにです本当に、打ち込みが出来れる人達が、沢山出来たときに、それが、そのまま、合楽の力になると思います。合楽の力それはほんなら皆さんの力と言う事にもなるのです。
 私は今日は家庭、家族勢を揃えて信心、合楽の場合はおかげを頂いて、段々家庭勢を揃えた人達が多くなってきた。けれどもそれはまぁ言うならば、自分家庭一家のおかげの信心からたいして出てはいない。そういう人達が今度は教会を中心に御用をさせて頂こうと。教会を中心にこと教会の何事かと言う時には、教会の力にもなろうと、その五人の家族の者が、十軒寄れば五十の力になるように。
 そういう力を結集して、私は本当は記念祭を仕えさせて頂きたいというふうに思います。まぁ皆さんの真心の要求と言う意味じゃないですけれどもね。段々御用を頂いておるうちに、真心一生懸命と言った様なものが。出てくるというふうに思うんです。始めの間はそう始めからその身から打ち込んでという人は、信心でもそうです。御用でもそうです。けれどもそれが段々信心にも、その身から打ち込んで、御用にもまたその身から打ち込んでの御用が出来るようになる時に。本当の信心の育って行きよると言う事が言えるのじゃないでしょうかね。
   どうぞ。